どうして「地獄と天国」と言わないんでしょうね。
必ず天国が言葉的に最初に来るようですね。
まあそんな事はどうでも良いとは思いますが、結構拘ってしまうんですね。
それでは質問です…。
「天国」が先に来ても後でも良いのですが、「天国」を実際にどの様にイメージされているんでしょうか。
勿論「地獄」に対しても同じ質問をします。
「天国」や「地獄」を概念で考えるのが正しい判断でしょうか?
それとも直接的に感じるのが正しい判断でしょうか?
どうもこの質問には無理があるような感じですね。
それは「どうして直接的に天国を判断する事が出来るんだ?」,という思いが出た人はいるかな?ということです。
きっとその人は、直接「天国」に行くことを考えたんでしょうか…?。
でもその考え、直感には、既に“概念”が組み込まれているようです。
それは一応「天国」は上の方にあるという感覚や概念を我々は持っている為に、その場所に行くにはかなり努力が必要で、心が綺麗でないと行けないという考えも、入っているのかも知れませんね。
海外の聖堂の天井に描かれている天井画も、頭上↑にあるということで我々は知覚していますから、どうしても天国(天上界)は、感覚的に頭の遥か上↑に在ると思ってしまっているようです。
また「地獄」は「天国」とは反対で、下の方↓、感覚的に地面の下↓に在るという感覚ですね。
でもそのどちらも作られた感覚だとしたら、あなたの概念はどの様に考えるでしょうか…?
このどちらも上↑でもなく下↓でもなく、方向にも関係なく存在しているとしたら、あなたは今どの様に考えるでしょうか?
ところで「天国」は「幸福」「楽しい」という概念にも関係していますね。
その反対に「地獄」は「不幸」「悲惨」という概念に関係していますね。
となってくると、「幸福」と「不幸」は、本当に存在しているものなんでしょうか?
あくまで概念的なものではないのか?
という疑問が生じてきます。
「天国」は「気持ちのいいもの」、という判断の対象でもありますね。
でも今までの人の主観的な「天国」を表す表現には「自分勝手な判断」が入っているとは思いませんか…?
もちろん「地獄」も然りです。
また「天国」は白○く、「地獄」は黒●い。
この白○と黒●というものは色ではないですね。
色は無色透明な光が、プリズムで七色に変化するものです。
ただその七色を変化させるものとして、白○も黒●も存在していますね。
赤は赤でも白が混ざればピンク系に変化し、黒が混ざれば暗い赤に変化します。
白と黒は、その様に純粋な色を変化させるものかも知れません。
というと白と黒は、結構私たちの「心」と関係するものかも知れませんね。
ただここからは私の持論が入ってきますから、それを前提に話しを進めなければなりませんので、反対論は当然出て来るでしょうから、それを否定はしません。
その理由として、以前の私は、「反対論者」だったからです。
私の持論は、『天国も地獄も存在する』ということです。
現実的に「じゃあそれは何処にあるんだ?」、という考えが生じます。
そうですね。
場所を特定するのなら、「何処にでも在る」と言えるようです。
そう、あなたの身の回りに存在している、ということが言えるではないでしょうか。
そしてあなたの考えが、その世界を作るということが言えるとしたら、それはあなたが,「カギを握っている」という事が考えられるんじゃないでしょうか。
自分自身を含めて考えて見ましょう。
世界中で、本当に沢山の生命体が存在していますね。
勿論人間だけではなく、微生物まで入れると、生きている存在物を数えることは出来るものではありません。
今の人間の知力で、その数を正確に判断することは、絶対に出来ません。
現実的に、この地球上で住んでいる人間の数でさえ、人間は正確に数えることも出来ていないからです。
例え日本や韓国の様に、戸籍がしっかりと作られているのならば別かも知れませんが、世界中の国で戸籍をしっかりと作っているのがこの二国だけだということを聞くと本当に驚きましたが、しかしこれも現実です。
この地球を考えても、人間を中心にして考えるのではなく、「生命を中心にして考える」ならば、未知数の数字しか私達の前には現れないでしょう。
そして考えてみて下さい。
我々は人間として君臨していますが、どの生命体も生命を維持するために、自然界で生き続けなければ、この地球では生命連鎖が崩れてしまい、当然人間も、この肉体を維持することは不可能になります。
肉体を維持することが出来なければ、そこには確実に「死」が現れて来ます。
勿論、誰もが必ず、経験しなければならない現実です。
「誰も、この死の現実から、逃れることは出来ない」、これが事実です。
それゆえに古今東西、昔から人は苦しんできました。
そしてその苦しみは、「死」への「恐怖」、それ以外の何ものでもありませんでした。
その「恐怖」から逃れようと、人は命を存える方法を考えてきました。
しかし肉体細胞の限界は、静かに訪れて来るものです。
そして「その時」が訪れた時に、人は何もかも、理解できるように成ります。
「今まで生きて来た、生かせて頂けた理由」が存在していることを、「理解」する事が可能になります。
しかし「生きている時に、理解する必要性が存在していた」事を理解しても、もう後の祭りかも知れませんが、必ずしもそうではないようです。
その時に、人は「何を求め、何を成したか」が問われるかも知れません。
ところで、「あの世」の存在を理解できますか…?…?
よくテレビで、「不思議な世界」として放映している番組が多い中、あなたは「馬鹿らしい番組」として、見ないでいる人なのかも知れませんね。
勿論、その番組には、くだらないインチキなものもあるにはありますが、真面目にその世界の存在を示している報道もあると思います。
しかしそれが「本当かそうでないか」は、あなたが決めることです。
その判断力が、決めることではないでしょうか?
現実に「霊の世界」が存在しているとしたら、あなたは自分の今の考えを改められますか?
それとも一笑に付してしまって、「馬鹿なこと」として、これからも考えないでおこうとしますか?
しかし誰が何を言おうと、どんなに反対しようと、「霊の世界」は存在しています。
実はあなたも、その中の一人であると言う事です。
ただ死んではいない、肉体を持っている「霊」として、存在しているだけだとしたら、あなたの概念は変化しますか?
勿論あなたが変わろうと、そうで無かろうと、どうでもいいことです。
そして信じようと、そうで無かろうと、どうでもいいことです。
私はあなたを変えようと、思っていません。
あなたが…決めることですから。
なぜ天国という、心の美しい魂達が行く次元が存在しているんでしょうか。
そして地獄も次元が存在しているんでしょうか。
でも現実はその空間は存在していないということを言うと、もう訳がわからなくなるからそれはそれでほっときましょう。
時空間が存在しない場所、ということも言われていますが、行ってみないと判らない、というのも正しい判断ですね。
それよりも、その世界が必要なんでしょう。
必要というよりも、存在しているから「ある」という表現が正しいのかも知れません。
何事にも「理由」があると聞いています。
心の美しい霊はその心の軽さに従って、その光の空間、次元というのか、場所というのか、天国というのか、その様な光の所に引き寄せられます。
ゆえに、
地獄も同じで、心の執着や欲の強い偏った重たい(デブとか痩せとかいう意味ではありませんよ)霊たちが行く所である、と言われます。
そして現実に自分の事しか考えず、人の心を無視し人を人とも思わず、人だけではなくこの地球環境、強いて言えばこの宇宙に「つばを吐きかける」ような人生を生きた霊たちが引き寄せられる空間としたら、あなたはどちらを選びたいでしょうか?
美しい心もそうでない心も、そうなれるのは、「カギを握っている、あなたの心」だということが理解できれば、全てあなたの考え、行動、実践がその世界へと、「あなたが導く」のだと言うことになるのではないでしょうか?
天国も地獄も存在しています。そして行くのはあなた自身です。
「この今をどの様に生きているか」で決まるとしたなら、あなたは「今をどの様に、どの様な心で生きて行きますか?」という質問があれば、どの様に答えるでしょう?
一度ある人にこの様な話しを聞いたことがあります。
それは
ある人が生死の境をさ迷っている時に、その人は「あの世」に行き掛けました。
そしてある時、その人の傍に「天国の人」が、立っていたそうです。
そして「天国の人」がその人に、問い掛けて来たそうです。
「そなたは、あの世に居りし時、何を成してきたか?」と問われました。
彼女は「私は子供を産み、育てました」と、返事をしました。
その時「天国の人」は、「それは当然です」。
「もう一度聞きます。そなたは、あの世に居りしとき、何を成して来ましたか?」と、また言われたんだそうです。
その時に彼女は、ハッと気づき、悟ったそうです。
「そうだ! 私は何もして来なかった!」、という事を。
ただ人生を、「自分の為にだけ、生きて来た!」、その様に悟ったそうです。
そして「もう一度、生き直したい!」と、願われたそうです。
そうしたら、その思いが起こった時に、息を吹き返したそうです。
その事実を彼女は、鮮明に覚えておられるそうです。
そして今彼女は、一生懸命思い出した約束を果たそうと努力し、生き続けて居られるそうです。
決してこの話しは、作り話ではありません。
またこの様な話しは、現実に何処にでも起こっていることです。
あなたの身の回りに、実は天国も地獄も存在しています。
その空間を作るのは、誰でもないあなたのその「心のあり方」が、決めることなのではないでしょうか?
どんな偉い宗教家や政治家、社長さんでも、「心のあり方」如何で地獄へ行ってしまうそうです。
どんな貧乏な環境で生きていても、心が美しければ天国に引き寄せられます。
環境でも何でも無く、その人が自分の人生をどの様に考え、そして実践して、この人生を全うしたかを、問われているのだと思います。
天国と地獄。
そのカギを握っているのは、誰でもない「あなた自身」であることを、心の中心に置く必要があるのではないでしょうか。
当然私もその例外ではなく、この現実をしっかりと理解し判断して、自分の人生を生きて行こうとしています。
この宇宙を構成され創造されている神様と共に、あなたもその宇宙の心を心として、この地球での人生を全うして行くのが、人生の楽しみだと思いませんか?
生きていることへの「喜び」を常に心に置いて、しっかりと自分の心を見つめつつ、神様の心と一体に成れるよう、心を美しくして行く努力をして行きましょう。
余計な心のゴミを捨てながら、自分の心を軽くして、いつも光り輝く心に成れますことを願っています。
私もそうなれるよう、日々努力していきます。
神様の存在は、目に見える形だけではなく、心の世界から響いてくる感覚としても感じ取れるものではないでしょうか。
いつも心静かに、己を見取る事(反省・内省)を実践して行くなら、別に宗教家を養うための宗教活動をしなくても、人間の作り出した「形骸化した宗教」をしなくても、しっかりと神様の心が理解できるものと思います。
「形骸化した宗教」には、神様の心は存在していない、と言えるかもしれません。
太陽や宇宙のような、いつも規則正しく運行している秩序の中に溢れている、ひっそりと降り注いでいる愛と慈悲のエネルギーかも知れませんね、神様の実践は。
ホームにもどる